札幌時計台 札幌市中央区北1条西2丁目 TEL011−231−0838
9:00〜17:00 月曜休館 地下鉄大通り駅徒歩5分


2006年1月11日撮影 雪の時計台
時計台パノラマ画像 向かいのビルから 2000年7月9日

時計台は旧札幌農学校(北海道大学の前身)の演武場として、第2代教頭W,ホイラーの構想に基づいて北海道開拓使のもと明治11年に建設されました。
建物は米国中西部の木造建築様式を取り入れた飾りの少ない実用建築で我が国では類例の少ない建築です。
時計塔には、米国ボストン市のハワード時計会社制作の振り子式4面時計が設置され明治14年の運転開始から当時の姿のまま時を刻んでいます。
時計台のまわりはビルに囲まれていて写真撮影の場所に困りますが、道路を渡ったビルのロイヤルホスト前に撮影場所があります。

塔について、百科事典で調べてみました。
一般に,幅・奥行きに比べて著しく高い建造物,と
定義される。しかし,塔には人間が昇っていく場所
という意味内容が伴っており,そのため煙突は塔
とはいえず,テレビ塔や電波塔もそれだけでは高
い構築物にすぎない。また,古代ローマの記念柱
であるトラヤヌスの円柱は,中を螺旋(らせん)階段
が昇り,塔ともいえる。先史時代の巨石記念物や
古代エジプトのオベリスクは,石塊そのものであっ
て塔ではない。
多くの場合,塔は発生的には軍事上の目的(監
視,防御)あるいは宗教上の目的(天上世界の希
求)をもっており,同時に塔はそれを実現し,支え
る権力の象徴ともなった。また塔は,形式や機
能,意味が時代や地域によって異なるとはいえ,
垂直に伸びる形状がもつ象徴性は変わることが
ない。その例は,中世ヨーロッパのゴシック大聖堂
や都市のシンボルとしての近代の塔(エッフェル
塔,東京タワーなど)に見ることができる。
なお,イスラムのモスクの塔については〈ミナレ
ット〉の項目,インドの仏教の高塔については〈ス
トゥーパ〉〈ビマーナ〉の項目を,それぞれ参照され
たい。
【西洋】
[古代] メソポタミアにおいて,塔をもつ城塞が
発達し,多く建てられたことが知られている。塔は
防御のために軍事的目的でつくられる一方で,早
くから宗教的な意味を担うことになる。すなわち,
メソポタミアのジッグラトは階段状の基壇の上に
建ち,何段ものテラスを階段や斜路がつなぎ,最
上段には祭壇あるいは神殿をそなえるものであ
る。それは史上最古のモニュメンタルな塔であっ
た。旧約聖書が伝える〈バベルの塔〉の挿話は,
町と塔を建て,その頂を天に届かせようという野
望とその失墜の物語であり,バビロンのジッグラト
の存在が背景にあると考えられている。バビロン
の守護神マルドゥクの神殿があったこのジッグラト
は,今では約91m 四方の敷地が確認できるだけ
にすぎないが,復元が試みられている。ウル第3
王朝期のジッグラト(前2100ころ)やアッシリアの都
コルサバードのジッグラト(前8世紀)などが著名な
例である。通常それらは神殿に関連する信仰の
対象であり,日乾鮭瓦で築かれた。メソポタミアの
城市の市門も塔状の部分にはさまれるのが普通
で,市壁にも塔がそなえられた。古代エジプトの
石造神殿入口はピュロン(パイロン)と呼ばれる塔
にはさまれていた。またその前には1対のオベリ
スクが建てられた。
古代ギリシアでは宗教との関連で塔が重視され
ることはなかった。ギリシアの塔として最も有名な
のは,アレクサンドリアの灯台であろう。それは
〈世界の七不思議〉の一つに数えられるほど注目
された石造建築であった。軍事的目的から塔が一
躍重視されるのは,ローマ時代になってからであ
る。塔をそなえる市門もその一つである。スプリト
のディオクレティアヌス帝の宮殿(3世紀末)は小規
模な都市と呼べるほどのもので,隅や各所に塔を
そなえて防御を固めている。
[中世] ビザンティンの建築はローマ建築を受け
継いで,塔をもつ城塞を築いた。宗教的な意味で
塔が重視されるのは,中世西欧のキリスト教社会
においてである。教会堂の塔は祈りの時刻をはじ
め,さまざまなメッセージを伝える鐘と結びついて
建てられた。鐘楼(鐘塔)が独立して建てられること
も少なくない。独立した鐘塔は,とくにイタリアで多
く見られ,ロマネスク様式のピサの斜塔(1173‐
1350ころ)や,ゴシック期のフィレンツェの大聖堂
の鐘塔(いわゆる〈ジョットの鐘塔〉。1334‐87)は有
名である。フランスのプレ・ロマネスク期(カロリン
グ朝期)のサン・リキエ修道院教会は,東西の内陣
上部の30m に達する木造の塔をはじめ,計9基の
塔をそなえている(790‐800)。11世紀末になると,
教会堂に塔を建てることが一般化し,ドイツでは
ケルンのザンクト・アポステルン教会(1035〜13世
紀),シュパイヤー大聖堂(1030‐61),ウォルムス
大聖堂(1110‐81,13世紀)などに,多くの塔が建
てられた。また,西正面に双塔をそなえる形式(早
い例は9世紀,フランス)が,フランス,イギリスで
見られ,フランスではカンのサンテティエンヌ教会
(1064‐77),イギリスではダラム大聖堂(1093‐
1113)などが著名である。一方で,交差部上部に
塔が建ちあがる例も少なくない(ベルギーのトゥー
ルネ大聖堂(1110‐1243),フランスのトゥールーズ
のサン・セルナン教会(11〜13世紀)など)。フラン
スのペリグーのサン・フロン大聖堂(1120ころ‐60こ
ろ)の高塔は,イタリアの鐘塔のように,半ば独立
して建つ。
ゴシック期の塔はロマネスク期の重厚で明確な
輪郭をもつ塔とはかなりちがった印象を与える。
窓など開口部は縦に引きのばされ,また尖塔を加
えることによって垂直性が強調され,分節も複雑
になってくる。また大小の多数の塔が建てられ,
大きな教会堂は複雑さを増すことになる。フランス
のノートル・ダム大聖堂(パリ。1163‐1250ころ),ラ
ン大聖堂(1160‐1200ころ),ランス大聖堂(1211〜
13世紀末),シャルトル大聖堂(1194‐1260),アミ
アン大聖堂(1220‐70ころ)の西正面に立つ双塔は
みごとである。交差部上部に塔を建てる例も少な
くない(イギリス。ソールズベリー大聖堂(1220‐60
ころ)の交差部の高塔)。ドイツでは,ケルン大聖堂
(1284‐1560,1826‐80)やウルム大聖堂(1377‐
1529,1844‐90)などの,上昇性の強い尖塔が知
られる。
他方,中世には,世俗的目的で建設された塔も
多く見られる。築城術は古代ローマからビザンティ
ンへと伝えられ,西ヨーロッパでは十字軍の遠征
をきっかけに本格化する。城には,わが国の天守
に相当する堅固な塔(キープ,ドンジョン)が建設さ
れた(十字軍が遠征先のシリアに建てたクラク・
デ・シュバリエ(12〜13世紀初め),フランスのガイ
ヤール城(1196‐97),クーシー城(1225‐45ころ)な
ど)。市庁舎の塔としては,イタリアのシエナの鐘
塔(1288‐1310)やベルギーのブリュッセルの鐘塔
(1401‐55)が著名である。都市の貴族の館も城塞
化されることが少なくなく,塔をそなえる例が,こと
にイタリア(サン・ジミニャーノなど)に多く認められ
る。⇒ゴシック美術
[近世] ルネサンスの古典主義は,塔をあまり
重視しなかった。ゴシック建築の垂直性,装飾性
を円柱やドームの安定した表現に置き換えたので
ある。軍事的にも塔の必要が減った。鐘塔は相変
わらず建てられたが,もはやゴシック期のように高
くそびえることはなかった。ただ,建物の中央や隅
を強調するために塔状に構築することはしばしば
見られる。バロック期になると再び垂直性への関
心が復活し,古典的な細部と幻想的な曲面とを結
びつけたバロックの鐘塔が新しいシルエットを生
み出した。また,双塔を正面にもつバロックの教
会堂建築がほとんどヨーロッパ全域,さらに植民
地にいたるまで建てられる。ローマのサンタニ
エーゼ教会(ボロミーニ設計,1653‐55),ロンドン
のセント・ポール大聖堂(レン設計,1675‐1710),
スペインのサンチアゴ・デ・コンポステラ大聖堂(フ
ェルナンド・デ・カサス・イ・ノボア設計,1738‐49),
南ドイツのメルク修道院(プランタウアー設計,
1702‐36)などがその例である。
[近代] 19世紀のゴシック・リバイバルにおい
て,塔のイメージが蘇生する。イギリス国会議事
堂(バリー,ピュージン設計,1836‐61)はゴシック
様式の世俗建築への適用例であり,時計塔は高
さ97m,ビクトリア塔は110m に達する。同議事堂
に見られるように,鐘塔にかわって時計台という
塔が生まれるのも,近代の特徴である。一方,近
代の新しい素材と技術はまったく新しい形式の塔
を成立させた。パリのエッフェル塔(エッフェル設
計,1889)は,鉄骨による300m(のちに320m とな
る)の塔として,新しい時代の到来を告げた。ダル
ムシュタットのルートウィヒ大公成婚記念塔(オル
ブリヒ設計,1907‐08)は新しい様式の塔として耳
目を集めた。他には,モデル工場の鉄とガラスの
階段塔(グロピウス設計,1914)があり,天文台で
あるアインシュタイン塔(メンデルゾーン設計,
1921)やル・ランシーのノートル・ダム教会の塔(A.
ペレー設計,1924)は鉄筋コンクリートの塔であ
る。19世紀末のエレベーターの発明により高層建
築が可能になり,いち早くシカゴで,次いで20世紀
になってニューヨークでスカイスクレーパー(摩天
楼)が生まれ,高さ381m のエンパイア・ステート・
ビル(シュリーブ他設計,1929‐31)によって第1期
の高さ比べは一段落した。バウハウス時代のミー
ス・ファン・デル・ローエによる鉄とガラスの摩天楼
プロジェクト(1922)は,1950年代以後に現実のも
のとなり,明快な超高層建築を出現させた。⇒教
会堂建築 長尾 重武
【中国】
中国に仏教が伝えられたのは漢代であるが,建
築にインド系の新要素が導入されたことを示す最
古の例証は,《三国志》に,後漢時代末に侵融(さく
ゆう)が徐州に建てたと見える浮環(ふと)祠で,金
色の仏像をまつり,九重の銅槃(どうばん)からなる
相輪を掲げた楼閣であった。浮環(または浮図)は
仏陀の転訛で,のちにはもっぱらストゥーパ
st仝pa を音写した率都波の訛略である塔の名で呼
ばれる建築類型を指す。すなわち,初期の仏寺に
出現した浮環は,インドのストゥーパの象徴的な
細部,チャトゥラーバリ(傘蓋),ヤシュティ(傘竿)
を,中国の伝統的な木造楼閣に採取した建築で
あると同時に,機能的には後世の仏殿に相当す
るものであった。その後,伽藍内において仏を供
奉する仏殿と仏舎利を安置する高塔の機能分離
が行われ,後者の建築類型として定着したのが,
中国独自の仏教建築形式としての塔であるといえ
よう。
中国における塔の形式は,しかしながら一様で
はなく,上記のような層塔を楼閣式と呼ぶのに対
して,密檐(みつえん)式と称する軒だけを幾重にも
重ねた形式も少なくなく,さらに単層塔,ラマ塔,
金剛宝座塔,花塔などの形式もある。プラン(平
面)も方形,八角形のほか六角形,十二角形など
があり,建築材料も柿(せん),木,石,金属など多
彩である。塔は,通常,塔刹(とうさつ),塔身,基座
の3部からなり,塔刹は,さらに宝珠・円光などの
刹頂,相輪,仏蓮などから構成される。南北朝時
代の文献の記述や石窟の表現によると,当時主
流をなしたのは楼閣式の木塔で,とりわけ北魏洛
陽の永寧寺九重塔(永寧寺塔)は史上に名高い。
隋・唐時代には木塔のほか,柿塔も数多く建設さ
れ,方形が主流を占めたらしく,また南北朝には
出現した密檐式柿塔もしだいにかなり普遍化し
た。現存する塔のうち最古の遺構は,柿造では12
角15層密檐式の嵩岳寺(すうがくじ)塔(河南省登
封。北魏,520),石造では方形単層の神通寺四門
塔(山東省歴城。東魏,544,または隋,611),木
造では8角5重裳階(もこし)つきの仏宮寺釈梼塔(山
西省応県。遼,1056)である。木塔の遺構はきわ
めて少ないが,柿塔にはこのほか密檐式の崇聖
寺千尋塔(雲南省大理。南詔後期),天寧寺塔(北
京。遼〜明),単層の会善寺浄蔵禅師塔(河南省
登封。唐,746),外表を琉璃柿で統一した
祐国寺鉄塔(河南省開封。北宋,1049),柿木混造
の雲巌寺塔(江蘇省蘇州。呉越,961),石造には
浮彫の優れる棲霞寺舎利塔(江蘇省南京。南唐,
937‐975),楼閣式の開元寺双塔(福建省泉州。南
宋)など,各地に優れた遺構が少なくない。ラマ教
の塔では,ストゥーパの原型を濃厚にとどめたチ
ベットのチョルテン式のラマ塔があり,妙応寺白塔
(北京。元)が最古の遺構である。金剛宝座塔は,
インドのボードガヤー大塔の形式を引き,高大な
基座の上に大塔と4基の小塔の5塔を配するもの
で,真覚寺(北京。俗称〈五塔寺〉)などに遺構があ
る。なお経幢(きようどう)は,八角形柱身に陀羅尼
経を刻む石柱で,本来,塔とは異質の類型に属
し,唐代後期以降に現れたものである。 田中 淡
【日本】
日本では西洋建築がはいるまで,塔は仏塔(塔婆)
に限られていた。西洋建築の輸入以来,洋風の建
物では,建物の中心などに塔状の部分,たとえば
時計塔などを設けるものも多く造られたが,近代
建築の興隆以来,機能的な見地から装飾的な塔
は好まれず,また市街地では土地の利用上,制
限いっぱいの軒高を取るため,塔を設けることは
少なくなった。
仏塔は仏教建築として輸入されたもので,材料
は木や石が多く,鉄塔,銅塔,瓦塔,泥塔,あるい
は紙に描いた画塔,印塔などもある。木造塔は多
層塔(3,5,7,9,13層)と多宝塔が普通である。石
塔は日本では小さなものしかなく,形式としては多
層塔,多宝塔,宝塔,宝篋印(ほうきよういん)塔,五
輪塔,無縫塔,笠塔婆などがある。鉄塔や銅塔に
は相輪娯(そうりんとう),宝塔,五輪塔などがある。
木造塔は舎利奉安のため,または大日如来の三
昧耶形(さんまやぎよう)として建てられたが,のちに
は伽藍(がらん)を荘厳(しようごん)するものとして,
あるいは故人の供養のために建てられるようにな
り,神社にも設けられるようになった。石造塔は供
養塔,墓塔として造立される。
木造塔の最初のものは推古前の585年に建てら
れた大野丘北塔であるが,その形式は明らかでな
い。これに次ぐものは593年(推古1)の法興寺塔で
あろう。飛鳥時代には塔は金堂の前方あるいは
側方に1基だけ建てられ,回廊が金堂と塔とを囲
んでいた。奈良時代になると,塔は2基となり,薬
師寺ではなお回廊内にあるが,平城京の諸寺で
は東大寺などにみられるように,回廊外,中門と
南大門間の左右に設けられる(伽藍配置)。これら
はいずれも方形平面の層塔で,3層か5層が多い
が,東大寺や各国の国分寺に建てられた七重
塔,百済大寺の九重塔,西大寺の八角塔などもあ
った。密教の伝来にともなって多宝塔が始めら
れ,平安時代には塔の造立はすこぶる多く,神社
内にも建てられるようになり,平安時代末の京都
では百塔巡礼が行われるほど数多くの塔が建っ
ていた。禅宗では教義上は塔を必要としないが,
実際には故人の供養のためなどに造立された例
が多く,五山のほとんど全部に建てられており,
地方の禅寺にも設けられた例が多い。しかし,禅
寺の塔は伽藍中心部を離れ,後方の山腹に建て
られるのが普通であった。足利尊氏は各国に安国
寺を建て,また利生(りしよう)塔を造立したが,安
国寺と違って利生塔は禅宗寺院に建てられたとは
限らず,造形は和様の五層塔であったらしい。中
世・近世においても,塔は寺院の荘厳を増すため
多く造立されたが,新興の宗派では日蓮宗にある
だけで,真宗や浄土宗はほとんど塔を設けない。
塔は元来,釈梼の墳墓としての意味をもつもの
で,釈梼の骨と称する舎利を納めるのが原則であ
った。木造塔では心柱の下の礎石(心礎)中に穴を
あけ,銅・銀・金の3重の容器を入れ,舎利はガラ
ス器に入れてこのうちに納められ,周囲を宝玉で
満たすものが普通で,まれに相輪中,または心柱
中に納められたものもあった。しかし塔が2基以上
も建てられることになると,舎利が各塔すべてに
納められることはなくなり,一方だけに納めたも
の,あるいはまったく舎利を納めないものが多くな
った。なお,経巻を舎利の代りに納めたものがあ
り,これを法舎利という。
[木造塔] 木造塔は三重塔,五重塔,多宝塔が
多く,七重塔は東大寺および各国国分寺に,九重
塔は百済大寺および法勝寺に建てられたが今は
なく,十三重塔は興福寺や笠置寺などにもあった
が,今は多武峰(談山神社)に一つを残すだけであ
る。平面は方形が普通で,西大寺,法勝寺などに
八角塔があった。現存のものでは長野県安楽寺
塔が唯一の八角塔である。
木造塔の構造は,中心に心柱(醐とも書く)を立
て,周囲に四天柱と側柱を立て,層数だけの木造
建築をつくる。第1層は中央に仏壇をつくり,仏像
を安置し,内部を装飾するが,第2層以上は構造
材を露出し,室として設備しない。外部は各層の
各面とも中央を出入口とし,左右を連子窓とする
のが通例である。心柱は最上層の屋根上に突出
し,青銅あるいは鉄の相輪を載せる。相輪は古く
は露盤ともいわれ,伏盤(俗に露盤),伏鉢,請花
(うけばな),九輪(くりん),水煙,竜車(舎),宝珠から
なる。心柱と周囲の部分とは構造的に関係なく,
別個のものであったが,平安時代末から心柱は第
1層上部で止まり,第1層内部を広く使えるようなも
のが現れた。三重塔は鎌倉時代以後,ほとんど第
2層で心柱を止める。五重塔では海住山寺塔を最
古の例とするが,後世のものでも,心柱は第1層
まで達しているものが多い。江戸時代には日光五
重塔のように,心柱を塔の上部から釣り下げるも
のが現れた。これは,心柱の収縮がほとんどない
のに,周囲の構造体は多くの木材を積み重ねた
形であることから全体としてかなりの縮みが生じ,
このため造立後,日がたつと伏盤のところで屋根
と伏盤との間があく結果となり,心柱下部を切断し
なければならないような事態を起こすといった欠
陥をなくするためであった。塔の形は,古いもの
ほど相輪が長く,かつ全高に対する第1層平面の
大きさが大きい。したがって,古いものほど安定
感がある。
多宝塔は元来,多宝如来を安置するものをいっ
たのであるが,かなり古くから上層円形・下層方形
の塔形を多宝塔という。これは円形平面に方形屋
根を載せた単層塔(宝塔という)の周囲に裳階(しよ
うかい‖もこし)をつけたもので,外観は二重塔とな
る。心柱は下層上部で止まる。上層の円形平面の
柱の配置を下まで延ばしたものを特に〈大塔〉と呼
ぶ(遺構としては和歌山県根来寺の塔)。上層は円
柱に四手先(よてさき)の組物を載せるが,下層は
裳階の意味をもつので,角柱に簡単な三斗(みつ
ど)を載せる。相輪は層塔とだいたい同様である
が,水煙はなく,四葉,六葉,八葉の3重の請花を
重ね,竜車がなく,四方の隅棟(すみむね)の宝珠
形に向かって鎖で連絡し,宝鐸(ほうちやく)を下げ
る。また,宝塔の屋根の四隅に4基の相輪(中央の
ものも合わせて5基)をあげたものを瑜梢(ゆぎ)塔と
いう。工芸品にはあるが,現存するものは高野山
に近年再興されたものがあるだけである。
なお,木造塔のうちには堂内に安置するための
小規模なもの,たとえば海竜王寺五重小塔,極楽
院五重小塔(奈良),東寺五重小塔(平安)などや,
宝塔・多宝塔形式のものがあり,奈良時代に十大
寺に納められた百万塔がある。
[石塔] 石造層塔は3〜13層で,第1層の四周に
四仏あるいは四位を表す梵字を刻む。初重だけ
背が高く,二重以上は屋根を積み重ねただけのよ
うな形式のものが多いが,木造塔に近い比例をも
ったものもある。遺品は奈良時代からあるが,他
の石造塔と同じく,鎌倉時代中期以後に急激に増
加する。宝塔は元来,塔の美称であるが,現在で
は円形平面の単層塔を宝塔といっている。国東
(くにさき)塔というのは,大分県にある地方色のあ
る石造宝塔である。石造多宝塔は宝塔と同じく,
平安時代から現れるが,遺品はごく少ない。木造
宝塔には遺構がない。木造では宝塔は構造が困
難で,下層に雨があたると壁の維持にくるしむた
め,裳階つきの多宝塔となったのであろうが,石
造ではこの難点はなく,形の上からも宝塔のほう
が好まれたのであろう。宝篋印塔は《宝篋印心呪
経》を納めた塔の意であるが,呉越王銭弘俶が八
万四千の方形平面単層の銅塔をつくり,それが日
本に伝来して盛んにつくられるようになったもの
で,笠の四隅に隅飾のある特殊な形式をもち,塔
身四方には四仏またはその梵字を刻む。遺品とし
ては鎌倉時代からある。なお,粋(もみ)塔というの
は,高さ2〜3寸ほどの宝篋印形木製小塔で,平
安時代末から鎌倉時代にかけてのものがあり,小
塔供養に用いられたものであろう。五輪塔は方形
の地輪,球形の水輪,宝形造の火輪,半球形の
風輪,宝珠形の空輪からなるもので,平安時代か
ら現れ,各輪四方に梵字を彫ったものが多く,最
も多くつくられた石塔である。また板碑(いたび)は
五重塔の簡略化されたものともみられよう。笠塔
婆は,柱状の塔身に笠石を冠したものをいい,鎌
倉時代から遺品がある。無縫塔は卵塔(らんとう)と
もいい,台上に卵形の塔身を置き,笠を載せな
い。禅僧の墓塔として始まり,後に各宗にも行わ
れたもので,鎌倉時代以後のものである。
[金属塔] 金属製の塔は,青銅あるいは鉄製
で,多宝塔,宝塔,五輪塔が多く,舎利を納め建
物内に安置するためにつくられている。相輪娯は
本来は経幢(きようどう)であって,経巻を入れた金
銅桶(こんどうとう)を高く支え,その上に相輪を載せ
たもので,延暦寺,輪王寺などに遺構がある。
[瓦塔] 瓦塔は全国にかなり出土遺跡があり,
また窯跡などからも多くの断片を出土するから,
昔は相当多数つくられたものと思われるが,完形
を保っている古い時代のものはない。形は木造塔
の形を陶器に写したものである。⇒寺院建築
太田 博太郎
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2006/08/18